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中村久子さん

今日は、中村久子さんの事を書くわな。

知っとる人はかなり少ないと思うが、すんごい方やで。

中村久子さんは3歳のとき、足の霜焼けがもとで両手両足を失ってしまうんや。

7歳の時、父と死別。


翌年、母が再婚するが大正5年、養父に見世物小屋に売られてまう。




着物を1ヶ月で縫い上げるように、母から厳しい躾を受けんねん。


自伝で中村久子さんはこう言うちょる。


「母に出来るまでやってみること、

やれないことはやってみないからなのだ。

と言うので部屋の掃除・火をおこすこと・寝具の上げ下げなど出来るまでやらされました。


でもどんなに苦心して何十回、何百回やっても出来ないのは着物を着たり、帯を結ぶこと、髪を結うこと、これだけは出来ませんでした」



名古屋大須で「だるま娘」の看板で、見世物芸人の生活が始まるのは20歳の時からやった。


屈辱の毎日。


庇護者の母との別れは辛かったことでしょう。


見世物小屋では、両手の無い体での裁縫や編み物をして、口だけで文字を書いてみせてん。


大正9年、弟栄三、母あやと相次いで肉親の死に遭う。

大正10年、見世物小屋で働く中谷雄三と結婚、翌年、長女美智子生まれる。


大正12年、夫雄三と死別。

その年、進士由太と結婚、翌年、次女富子生まれる。

大正14年、夫由太と死別。

大正15年、定兼俊夫と結婚、昭和2年、三女妙子生まれるも翌年死別。

離婚。

昭和9年、中村敏雄と結婚。


昭和12年4月17日に東京日比谷公会堂において、ヘレンケラー女史と会見、口で縫った日本人形を贈る。


中村久子さんは、そのつらい経験を書いた文章が認められて、雑誌に掲載されます。

それがきっかけとなり、努力してきた久子の境涯が世間に注目され、この頃から頼まれて講演に出るようになる。

昭和17年、22年間の見世物芸人生活に訣別する。


講演が多くなり、婦人会、母の会、お寺、傷痍軍人会、学校、刑務所等を廻る。


夫や娘に負われて全国を歩いた講演は死ぬ直前まで続いた。


しかし久子は心の中に、自分の苦しい経験を人に説いて聞かせてあげているという慢心を見つけて悩んだとされます。


昭和43年3月19日死去。享年72歳。


~~~

中村久子さんの言葉です


「逆境こそ寵なり。

人生に絶望なし。

いかなる人生にも決して絶望はない。

どんなところにも生かされていく道はございます」



「人間には絶え間のない苦しみがある。

夫に先立たれた妻、子に死なれた親、一生身動きすらもできないお気の毒な方もあります。


どんな境遇の人でも、その苦しみや、悲しみを

愚痴や、不平で終わることなく

それを喜びにかえていただくことが

善知識と思わせていただき

われ一人の助かりでなく

人さまにも喜びをお分けさせていただくのでございます。」



出典:

黒瀬昇次郎著

「中村久子の生涯」

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